国家試験に向けて、複数の教科で登場する「イギリスの福祉」
低所得者に焦点を当てた取り組みを行ってきたこと、社会保険や福祉国家としての先進的な取り組みが問われるようです。
世界史的にはドイツのビスマルク政策「アメとムチ」や北欧の高税率福祉国家の在り方に目が行きがちですが、貧民政策においてはイギリスなんです。
日本では本能寺の変から豊臣秀吉が全国統一を果たす時代、エリザベス1世の治世にまでさかのぼります。400年前です。
スペインの無敵艦隊を倒したイギリスは、封建社会の崩壊が進み、宗教改革の余波を受けて貧富の差が拡大していました。主を失ったものやエンクロージャーで土地を没収され働けないものはたちまち貧民層に落ちました。
貧民を救っていたのは教会です。宗教改革のあおりを受けたカトリック教会も善意で人を救うには財政的にも厳しく、蓄財を認めるピューリタン教会も手厚く保護はしませんでした。
町中に貧民があふれたことで治安維持や商業発展を危惧したエリザベスは「貧民でも働けるなら強制労働させて財を成せ、どうしても働けない障害者や老人は収監せよ」と命じました。世にいうエリザベス救貧法です。貧しい人間を世間にさらすなってことです。
1601年に施行された救貧法は、イギリス貧民政策のスタンダードとなり200年以上も続きました。
産業革命やアメリカの独立革命、フランス革命などを通じて「人権擁護」の考え方が広まります。
イギリスでも「強制労働はやりすぎ」「収監も人権無視だ」という声が広まったこともあり、1782年に労役所での強制労働ではなく在宅での内職を進めるギルバート法が施行されました。いわゆる院外救済とよばれます。
1795年には働いても働いても貧民な課程を対象に多少の給与保障をみとめるスピーナムランド法が成立します。
産業革命の急激な進行で、資本家と労働者という新たな階級が生まれ、多くのものが労働者として過酷な労働を強いながら貧しい状態が続いていきました。政府は再び「働かないのは悪、働けないのも自己責任、働くことこそが生きる道」とでもいうべき法律を施行しました。
1834年の新救貧法です。働くものから徴収した税金で働かないものを救うのは不公平だという考えのもの、再び強制労働を課しました。
世界の潮流に逆行するこの法律に疑問を持つ学者も現れました。
1800年代末からロンドンの貧困調査をしたブース、ヨークで調査したラウントリーが相次いで「貧困は社会の責任で自己責任ではない」とのデータを公表します。
彼らの調査では浪費や怠惰によって貧困に陥っている人は全体の数%しかおらず、病気や障害、先代からの継承、過労による精神疾患、多子などの要因がほとんどを占めていることがわかりました。
この調査をきっかけに様々な研究や考察が行われ、貧困問題を社会問題として国が責任をもって対策するような動きが加速していきます。
ウェッブ夫妻がナショナルミニマムという考えを提唱し、ドイツで始まっていた社会保険の仕組みを取り入れ、健康保険と雇用保険制度を創始します。
2つの大戦を経て、国民全体が貧困となったことで、いよいよ国が全面的に支援を開始します。医療や老後も含めて「ゆりかごから墓場まで」の政策が次々と打ち出されました。
世界的に福祉は国策という流れで公金を投入していきますが、寿命が延び、出生率が下がり、医療が充実してくることで、社会保障の限界が見えてきます。オイルショックも重なって、世界的に経済成長が鈍化します。そんな折首相に就任したサッチャーは福祉は国策から地域・民間へと縮小しました。「小さな政府」ですね。
地域福祉の充実、住民主体、民営化など今の日本でもスタンダードになった政策が1980~90年代にかけて進められました。
さて、日本の福祉政策はイギリスに追随する形で発展してきましたが、いまや最も高齢化で出生率の低い低成長国になってしまいました。先見の明がなかったのか、先送りしてきたツケか、不安が募る今日この頃です。