授業中に先生も言っていましたが、今は不登校と呼ぶ言葉も昔は「登校拒否」と呼んでいました。そうでした。
熱中症も昔は熱射病て呼んでましたね。時代とともに言葉は変わりますね。
不登校は年間30日以上の欠席で入院等を除くというのが定義です。行かないという結果に対して付けられたものです。
それに対し登校拒否は「行きたくない・行けない」というプロセスに対して付けられた言葉のイメージがありますね。
昔は学校に行くのが当たり前で、行かないことはダメなこと。行けないのは何かある、何かあるから登校拒否となった。だから拒否する原因を除去しなければならない。
原因を追究すると、学校や友人関係といった外的要因から、家庭環境、本人のやる気、さらには起きられないといった病気までさまざまあって、一つとは言い切れないぞと。
行きたくても行けないパターンもあるぞ、ってことで欠席が多い=不登校となったのかなと私は推測しております。
私も小学生時代、学校が嫌で行き渋っていた時期がありました。
単純にいじめられていたからです。
でも、行かないと余計いじめられるかもしれない、弱いとさらに見下される、一度休むと次行く時が怖い、といった理由で無理して行ってました。欠席は10日前後でした。
高校生の時は、学校がつまらなくて休んでました。
授業がつまらない、教師がうざい、同調圧力がしんどい、行く意味がわからん、義務教育じゃないから受験さえ受かればいい、という屁理屈こねて家でゲームして、体育のある日だけ遅刻して行ってました。
これを私は、自主的に不登校を選択していたという意味で「積極的不登校」と呼んでます。
高校教員の時に、生徒に「無理に学校来なくていいよ、積極的不登校という選択もあるよ」と言ったことで管理職に怒られました。「来ることが当たり前だから休むことを奨励すな」と。
精神的にしんどい子や起立性調節障害で朝起きられない子は年々増えています。
彼らに「来ることが当たり前」という考え方を押し付けるのは危険です。その考え方がプレッシャーになって余計に拒否反応が大きくなり学校に来れなくなるからです。
コロナ禍でオンライン学習が定着したこともあり、今は在宅で学習できるシステムが整っています。
N高をはじめとするネットスクールや通信制の需要も高まっています。
通学か通信制かの二極だけでなく、ハイブリッドタイプのものやフリースクールも増えてきています。
不登校は悪いことではなく、選択肢の一つです。
彼らが社会性を身に着ける場所をもっと増やしたい。ネット上だけではなく、リアルで人間同士がかかわれる場所を。
不登校でも勉強はできる、運動もできる、人と会話もできる。
できないのは集団生活。不特定多数の生身の人間との対面コミュニケーションからでしか得られない・感じられないものは必ずありますし、それは社会で生きていくうえで欠かせないものです。
対面でのコミュニケーションを磨く場をどう提供していくか、不登校の子の心身のケアと合わせて必要ではないでしょうか。