私は連帯責任という言葉も行動も嫌いです。
真面目に頑張っている人間が損をするからです。
たとえば遅刻。
体育の時間にありました。一人が集合時間に遅れてきたために、全員が罰としてグランド5周走らされて、体育教師が言うんです。
「一人が1分遅れたことで、ここにいる40人分の40分を無駄にしたことになるんだ」と。
え?1分は1分じゃね?ってツッコんだら怒られましたけど。
部活でもあるある。
バスケットボールのフリースロー練習で、連続して5人決めるまで練習終わらないってのも酷でした。
外したらどうしようというプレッシャーへの耐性をつけることにはプラスかもしれませんが、外した時の視線の痛いこと。
ただ、教師時代も私は連帯責任のようなことを生徒に課していました。
「できない人をみんなで助けよう」を合言葉に、だれ一人取り残さない仕組みづくりを目指していました。
初めはうまくいってたのですが、ここ2,3年で破綻しましたね。
その理由はこうです。
できない人=提出物出さない、小テストで落第、忘れ物が多い、私語が多い とします。
周りの人は、提出物を出すように促し、小テスト前に勉強を教え、私語していると注意するようになりました。
うまくいっているように見えましたが、あるとき、できない人が感情をあらわにしました。
「オレだってがんばってるねん。毎回毎回うるさいねん。静かにしろって声の方がうるさいわ、お前らだってできてないときあるやろ、ほっといてくれ!」と
できない人はたびたび注意されることに申し訳なさと、いらだちを覚えていたそうです。それが溜まりに溜まったそうです。
周りも、注意するのが面倒になって無視する人、何回言うても治らないから皮肉交じりに侮辱する人、攻撃的になる人など
教師の私が直接言わないことで、できない人へのいじめになりそうな状況へとなっていったのです。
今思うと、これも連帯責任を押し付けてるもんですよね。反省しています。
また、注意してくれる人に対して文句を言う勢力も出てきました。
正しく行動している人が損をする。これを目の当たりにしたとき、できない人をできる人が面倒を見るやり方はバッサリ削除しました。
できない人は、できないことに苦しんでいる。
できる人はできない人の苦しみに寄り添えないし、できない人はできる人と比べて劣等感を抱き、自己肯定感を下げてしまう。
できる人も、わかってもらえない苦しみで自己肯定感を下げてしまう。
結果、できる人とできない人の心の距離は離れ、誰もが不幸になってしまう。
できない人には教師がフォローの第一人者となり明確なゴールを提示する。周りはそれをサポートする程度がちょうどいい。
だから私は、今の学校で連帯責任を課してくるやり方には反対です。教師の怠慢ですよね。